私の履歴書 蓑輪善藏-その3-
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私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
写真は蓑輪善藏氏
私の履歴書 蓑輪善藏-その3-中央度量衡検定所は夜学通いを奨励
日大の高等工学校に
中央度量衡検定所(中検)は職員に夜学に行くことを奨励していて、通学にはいろいろな便宜を与え、退庁時間も夜学に間に合う時刻で良いとされていました。夜学に行っていない人がいると、「何故行かないのか」と言われ、多くの人が中学校、専門学校、大学などの夜学に通っていました。
私も4月から日本大学の高等工学校機械科に通っていましたが、家は代々商人で父は銀行員、中学に入るときも銚子商業か佐原中学かで迷わされていた程なのに、何故理科系の学校を選んだのか今になってもよく分りません。ただ、この時代、理科系優遇の措置がとられ、国としての要求も多くなっていました。同じ機械科に佐原中学の3年ほど先輩で都庁に勤めていた根本さんが通って来ていたのは、驚きでもありました。
ボート部に籍を置く
この学校は夜学であってもボート部があり、郷愁もあって入部し、授業が終わったあと屋上でスライド式の道具を使い、エイトを漕ぐ練習をしていました。夏休みになって、艇庫に近い向島に合宿所を設営、朝の4時頃から2時間ほどエイトを漕ぎ、朝食後都電で銀座4丁目迄行き、木挽町の中検まで通う日々を2週間程続けました。
日曜日にはエイトを漕いで埼玉県の方まで上ったりしたものです。合宿の終わりに上級生と浅草で打ち上げをしましたが、ビールの大ジョッキが54銭、大ビンが32銭だったように思いましたが、初めての面白い経験をしました。殆どの人がへべれけで、まともだったのは酒の飲み方を知らない私のほか二人ほどでした。上級生を合宿所まで連れて行くのが大変でした。
東京物理学校に入学
10月頃までは日大の夜学にも通っていましたが、高等工学校は準専門学校であったし、17才の私に来年からボート部のキャプテンをやれ等と言われた事もあり、さらに、中検には東京物理学校の卒業生が多いし、在学している人も多かったこともあって、翌年から東京物理学校にゆくこととし、夜学は退学してしまいました。
何故東京物理学校の卒業生が多いのか、その時は分かりませんでしたが、後に、1891年公布された度量衡法施行に伴う、度量衡取締公務員を養成するため、その教育を東京物理学校に委託したことに起因していることを知りました。中検には岡田さんの明治専門学校出を除けば技師は総て東大出で、専門学校出の多くは物理学校出でした。
私は夜学に行かなくなると、時間を持て余すようになり、万世橋にあった洋画専門の映画館シネマパレスに毎週通い、ここで「格子なき牢獄」などのフランス映画を見たり、飯島さん達に付いて見物や遊びに連いて回っていました。
中検技師の面々
中央度量衡検定所(中検)は1933年の庶務細則では、本所に1部、2部、3部と庶務係を置くとの規程がありましたが、私が入所した頃は、研究、検査、検定等を技師が分担処理していた模様で、一度も技師を呼ぶのに部長という言葉を聞いたこともありませんでした。
長さ測定における光波干渉測定で世界的な研究成果をあげた渡辺襄氏が二代目所長で、その下に、本所には米田麟吉技師、今泉門助技師、玉野光男技師、岡田嘉信技師、天野清技師、佐藤朗技師と属兼技手の友森肇さん、大阪支所長に糸雅俊三技師、福岡支所長に的場鞆哉技師が居られ分担して総ての指揮をとっていたようでした。私などから見れば雲の上の方々ですが、先輩達は皆「さん」づけで畏まっているようなところはみえませんでした。
私なども1年間教えて頂いたこともあって、親しみも感じられ中検時代から「さん」づけで呼ばせていただき、それが続いていました。この頃は食糧事情も厳しくなってきていましたが、まだ外食券なども比較的に余裕があり,銀座にも牡丹、若松などの喫茶店も開いていました。
教習修了祝いに箱根に
一年間の教習が終わりに近づいた1943年3月、教習責任者の米田さんと神奈川県度量衡検定所長の岩崎栄さんとのお世話で神奈川県度量衡検定所小田原支所の見学と、教習生だけによる箱根湯本での一泊旅行を計画実行していただきました。
確か吉池だったように思いますが、このときは大阪の西岡さんが引率者になっていました。計量教習の終了と同時に、支所の人たちは支所に帰り、本所でもそれぞれの部署に戻りましたが、私は量衡器係ではなく、新しく比較検査係に配属されました。
比較検査係に配属
比較検査係は今で言えば基準器検査係で検定に使う当時で言う標準器の器差検査の実施部署で、幹部は玉野光男さん、天野清さん、佐藤朗さんの各技師の下に物理学校出の北村品市さん、竹内喜一郎さんの両技手と後に属となった技手で、教習が一緒だった斎藤勝雄さんがおられ、それに雇員の坂本熈さん、石沢邦治さん、大越正夫さん、宮坂主計さんなどと女子職員では井上みよ子さん、疋田ますさん、神田真砂子さん、松本多美子さんなどのベテラン先輩連がおられ、女子職員の方々は分銅、ます、化学用体積計の基準器の検査を、その他の器種を男性が担当していました。
男子職員が毎日行っていた業務は湿式ガスメータの検査で、私も先輩達に教えられ早速と3灯、5灯の検査を手伝い始めました。
月給貰いながら物理学校へ
この4月から飯田橋の東京物理学校にも通い始めましたし、親戚にいつまでも迷惑を掛けていられませんので、石沢さんの世話で千駄ヶ谷の石沢さんと同じ家に下宿することになりました。東京物理学校への入学は、無試験で、戸籍謄本があれば高等師範科に行かれますが、無いと本科で私は本科でした。これは、早くから父親に戸籍謄本を頼んでいたのですが、出願期限までに届かなかったためでした。
月給45円、授業料8円
千駄ヶ谷での下宿代は朝、夕の2食ついた4畳半で月33円、月給が45円、物理学校の授業料が8円、これで、飢えもせずに生活できたのは、ボーナスと出張旅費とのお陰でしょう。下宿に移った当座南京虫に悩まされたのには閉口しました。
この下宿には入所直後に配属された量衡器係の職員で、この時は退職していた東山利一さんが時折訪ねてきていました。中検には短い期間しか勤めていなかったようでしたが、彼は右翼の大物影山正治氏に心酔していて影山塾にも入っていたようで、終戦の日に宮城前で割腹してしまいました。下宿から新宿までは歩いても直ぐで、時間を作っては遊びに行っていました。
東京物理学校の夜学
1943年4月には艦載機による東京初の空襲がありましたが庶務室の窓から見ていた事が思い出されます。物理学校では夜学の1年生が2500人で1組500人、さすがの大部屋も遅く行けば座るところもなく先生の声も聞こえませんでした。
しかし物理や数学は計量教習での講義の復習が多く、1年の時の出席は半分くらいでした。6月になった頃、石沢さんのお姉さんが伊豆大島のため朝館におられ、大越さんと遊びに行くのに無理にご一緒をお願いし、下駄で三原山に登り、途中で下駄が半分に割れ往生したのを思い出します。
石沢さんは私を連れて行くのに反対で、物理学校は試験が大変だから、大島などへ行っていては駄目だとのことでした。このとき、いま大島に帰られた白井岩一さんのお母さんにお目にかかった様に思います。
ガスメーター校正の思い出
学校が夏休みになるのを待って,守衛室の隣にあった11tのタンクによるステーションメーター(大型湿式ガスメーター)の校正を行うことになりました。責任者は玉野さん、そして竹内さん、北村さんに坂本さん達、私も参加し手伝いをしました。
測定は温度が一定する夜半過ぎから明け方まで、夜10時頃再び出勤する玉野さんは、私などには珍しかったホットケーキを持参されたりして、測定に立ち会っておられました。
測定の流速が遅いときは待ち時間が長くなるので、本を読んだり囲碁をしたりしていましたが、私は玉野さんと将棋を指したことが忘れられません。囲碁はまだ出来ませんでしたし、将棋も小学校の頃に遊んだ程度、時間を持て余していた私の相手をして頂いたものと思っています。
当然のことながら一度も勝たして貰えませんでした。10日程かかったこの測定が終わった頃、度量衡の指導者として中国の天津に居られた江浦重利さんが中国の人1人と共に、中検見学のためか1週間ほど比較検査係に通ってこられたことがありました。
秋に入ると、今度は小型の標準湿式ガスメーターの校正を本館2階の中庭で、縦型のベル型ガスホルダーを使って行いました。
丁度この頃が国内標準の確認時期にあったようです。ガスメーターの校正が終わった後は佐藤さんの仕事即ち原器室でH型標準直尺の水中での比較を手伝うようになっていました。地下室には横動比較機もあった筈ですのに原器庫の前での作業でした。
私たち入所1年程の男性4、5人が、ガスメーター、水道メーターの出張検定要員確保のため、白藤静一さん(後岩手県に移られました)から検定の実習を受け、都内出張に行く事ができるようになったのもこの頃です。
検査出張手当で助かる
出張先は、品川製作所、金門製作所、園池製作所、東京ガス、都の水道局その他で、毎日30人以上もの人々が出張していました。都内出張の手当は半日当で、技手が1円25銭、雇員が1円でした。この旅費は私の生活に随分役立ちました。
岡田さんを長とした使用中の水道メーター調査が行われたのもこの頃で、成績はあまり良くなかったと思いますが、戦争に必要な金属不足を踏まえ、この結果から有効期間の延長になったようです。
確かこの年の冬からだったと思いますが、鉄供出のため、暖房がスチームからダルマストーブに切り替えられ、地下室からの石炭運びが男の仕事になりました。温度の急激な変化は測定に影響を与えるため、部屋の中央部付近にストーブ1つが置かれていただけでした。
休み時間になると先輩の女子職員達は半卓の下にガスコンロを置き、毛布を掛けておしゃべりをしていましたが、良くその中に入れて貰っていました。そんな時天野さんが脇を通ることがあっても、笑っていましたが、当時渡辺所長の主義なのか、男女間の垣根は非常に高いもので、所内では口を聞くのもご法度で、女性はお嬢様、男は何処の馬の骨か分からないと言ったとかで、年配の林さんと言う女子職員の監督者もいて目を光らせていました。
物理学校の2年生に進級
坂本さんが出征したのもこの頃で、壮行会をするため天野さんと、今のJRで吉祥寺の坂本さんの家までご一緒したことがありました。
翌1944年はじめ天野さんや竹内さんなどから勉強の便宜を与えられたお陰で、物理学校も運良く2年生になることが出来ましたが、2500人いた1年生が500人になっていたことには、聞いてはいたものの大きな驚きでした。比較検査係の皆さんからお祝いを言われました。
ご褒美とお仕置き
2年生になったということだけで比較検査係から渡辺所長直属の調査研究係に移されました。
物理学校出の小池清さんの下で、私と一緒に物理学校に通っていた「馬見塚勝」さんが出征した後任の様でしたが、後で聞いた話では、蓑輪君にはその仕事は向かないと、天野さんはこの移動には反対されたとの事でした。
小池さんは物理学校夜学で製図の講義を担当していて、私も生徒の1人でした。調査研究係の係長は近藤幸造さんで、ここでは当然のことながら定常的な仕事はなく、ブロックゲージをベンガラや酸化クロムで磨き平面を出すことや、ニッケル鍍金の実験などをさせられていましたが、3週間くらい経ったときのこと、昼の15分前頃にブンゼンバーナーで飯盒の飯を炊いていたとき、突然と渡辺所長が入ってこられ、途端に雷が落ちてきました。
中検の感化院に
直ぐ謝ればよかったのにと後で言われましたが、見つかってしまったことだし、今更言い訳もと頭を下げて黙っていましたところ、逆鱗に触れたのでしょう、翌日、中検の感化院と称されていた(後から聞かされた話)係長が谷川盈科さんの計圧器係に配置換えになりました。谷川さんから聞かされた話では、所長が玉野さんに、あいつは、馬鹿だか図々しいのかわからん奴だと、言ったとか。
(つづく)
明治専門学校
明治専門学校は山川健次郎と安川財閥の創始者である安川敬一郎らによって、1909年(明治42年)福岡県北九州市に私立の旧制工業専門学校として創立された。1921年(大正10年)に官立に移管され、1949年(昭和24年)に国立九州工業大学になる。明治専門学校には支援と特別講義などのため尾崎行雄、犬養毅、大隈重信、原敬、長岡半太郎、手島精一、益田孝、渋沢栄一、團琢磨、藤山雷太他など訪れている。
米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏
米田麟吉氏は『日本計量新報』のwebサイトに掲載している、蓑輪善蔵氏の「私の履歴書」と齊藤勝夫氏の「私の履歴書」のなかに登場している。小口太郎は1919(大正8)年、東京帝国大学理学部物理学科に入学しており、当時1学年20名か30名であった理学部学生の同級生として芝亀吉、米田麟吉の両氏がいた。小口太郎の名前は科学者としての業績よりも、三高の水上部員時代に作詞した「琵琶湖周航の歌」で知られており、生家のある長野県岡谷市の諏訪湖畔、釜口に銅像が建っている。米田麟吉のことを中央度量衡検定所の後輩の高橋凱は「上下に隔てのない、また後に残さない、本当にさっぱりした気持ちの良い方でした」と日本計量新報に追悼文を寄せている。同じく中央度量衡検定所の後輩の高田誠二は「英文、仏文の論文や資料をこしらえるときに先生のお世話になった方は数しれないだろう。論文の英文抄録をでっち上げる場合、初心者はたいてい「これこれについてしかじかの条件下で何々が」と長々しい収吾をしつらえ、文末に「……が研究された」と書く。先生それをサッとご覧になって「頭が重いよ」と批評なさる。つまり「主語が長すぎるよ」という意味なのだ。芝亀吉は徳島中学校をてて、のち1918年(大正7年)に第三高等学校を卒業している。熱学、熱力学の権威であり、計量管理協会の事業にも深く関わっている。米田麟吉は東京府立一中から第八高等学校に進んでいる。3人とも1922年(大正11年)に東京帝国大学理学部物理学科を卒業している。米田麟吉は電気試験所に入所、大正15年に中央度量衡検定所に転任、後に第一部長、第二部長などを歴任して1961年(昭和36年)に退官して工学院大学教授に転じている。芝亀吉は東京大学教授などを勤めた後に東洋大学教授となっている。.米田麟吉、芝亀吉、小口太郎の三氏。
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